2021年2月9日火曜日

世間と自然

安全は世間で対人の世界。セーフティは自然で対物の世界。

「対人の世界」と「対物の世界」に、「世間」と「自然」に大きく分かれると思う。

例えば「将来の夢はユーチューバー」という子が増えてるけど、これは子供たちがいかに「世間」だけで生きているかの表れだと思う。世間しか知らない知ろうとしない知る機会を探さない知ろうとする努力をしない。それがオカシなことだと認識もしない。
社会が都市化して、自然を排除して、人間にとって都合の良い世界だけを考えて、自分をどう見せたいか?人からどう思われるか?人とどう接するか?こういう関心のみが全てで世界が成り立っているのはオカシイと思う。

私は小さい頃から花や動物や虫が好きでまさしく「対物世界」が好きでした。っていうか、周りに良いオトナが居なかったから?「対人世界」にはあまり興味が湧かなかった。釣りが好きだったり、動物の足跡でイメージを膨らませたり、動物の猟にワクワクしたり、きのこを不思議と思ったりしてました。
毎日地べたを見てもその都度面白いって思えてました。

昨日まで無かった所に信号が出来たら、オトナはみんな素晴らしいとか言って、自分を不自由にして喜んでいた。川が護岸されこれで水が溢れないとか言ってた。
今まで右見て左見てナナメに横断できた道が「信号に従わないと道は渡れない」ってセンセが言ってた事に違和感を覚えた。本当に川が氾濫しないの?って疑問だった。
そういうことを考えるなって親は言った。
考えなくても良い社会が世間らしかった。

そういうコトが積み重なって対人世界に不信感を覚えた。

covid-19で困っているのは対人世界です。外食産業や、劇やスポーツや音楽などの観戦、サービスに価値みたいなものを付加して人を集める商売が苦しい状態になっている。 何とかしなきゃならないと、対人世界だけでどうにかしようと頑張っている。

私は今でもほぼ毎日、朝から森に入って「対物の世界」を観ています。いつも通り出歩いていても、自粛しろって叱責されることも無いし、目に付かないからマスクも要らないし、だいたい人間に逢わないから何の問題もない。誰にも移さず誰からも移されない。それよっかエキノコックスとか蜂に襲われる方がよっぽど恐い。

「対物世界」で生きる人は、農家さんや漁師さんの生活はそれほど大きく変わっていないと思う。採ったモノを「対人世界」に売ってその対価で生活している人は苦しいと思うが、儲からないから苦しいけど、生活するだけなら儲からなくても良い。儲からなくても良いという前提なら、苦しく無いんじゃないか?
昔は自分たちが喰っていけるだけで充分だったはずだ。でも他の対人世界の刺激的な事で、刺激的なモノを知って手に入れたくなったから、ソレを価値にして価格をつけてカネを手に入れて、そのカネが入らなくなる事が生活を苦しくしてる原因だと思う。

世間の影響を受けない世界もある。っていうとこをみんな忘れてる。
だから虫がキライとか、土で汚れるのがキライとか言うんだろ。

過剰なサービスや親の過干渉に慣れているから、それしか知らないから、自分で考えて行動できる人は少ないんじゃないか?マスタースレイブ以外の生き方を知らないんじゃないか?考えなくても良い対人世界しか知らないと、危機に疎くなるよね。

世界でグローバリズムが叫ばれているが、そのグローバリズムっていうものも「対人世界」の話だけ。ヒト・モノ・コトの流通が少なければパンデミックも起こりにくい。私も全く一人で生活は出来ないと思うが、誰かに依存しすぎると危機を招く。
そこでナショナリズムが台頭してくると、自分たちの家族や民族以外の誰かを悪者にして仮想の標的を造って攻撃する。自粛警察的なヤツね。

危機を見え難くしている対人世界が、ここに来てアワワってなっているだけの気がする。 人生100年とか言ってるけど、そもそも人間はそれほど優秀な遺伝子を持っていない気がする。猫だって昔は4〜6年くらいの寿命だったけど、喰うものが良くなって、環境が良くなって、飼いならされて外にも出なければ、14~16年は生きる。ソレはそれで結構だけど、果たして14~16年生きることをヨシ!とするのは対人世界だけだろうね。

森でシジュウカラが猛禽に襲われて喰われている。
当然タカも生きてきゃならんし、家族も居るんで、襲って喰う。
一方シジュウカラも森で襲われないために細かくクイッキーに飛べてたり、生活域を変えたり、混群を作ったり、色々な対策をしている。徒党を組んでタカを追い出そうとはしない。追い出して自分たちの楽園世界を気づこうとしない。もっとも出来ないけどね。でも策を労して自分の身は自分で守る。混群を作ったり、警戒態勢をチームで築いたり。自ずと自分や自分の仲間と考えて行動してるんじゃないか?
マルッと誰かのセーフティに頼らないと思う。

先日エゾモモンガを観ていた時、
上空に1羽のカラスが通過した。
その時3頭のモモンガが一斉に飛び出した。
恐らく何も考えず飛んだんだろうけど、
ソレは反射じゃなくて経験で考えて
飛んだんだろう。
3頭が一遍にバァッと膜を広げて
飛び立つ瞬間は見事だった。
着地場所も考えず飛び出したんだろう。
だから1頭は、すぐ目の前のアカエゾに
取っ付いた。1m程の目の前に。
そういう瞬間を観れるからヤメられない。
ひょっとしたら、カラスじゃなくて
フクロウだったら遣られていただろう。
でも上空を飛ぶ黒い陰は
奴らにとって危険な存在だ。
とりあえず何も考えず飛ぶって選択肢を、
考えたのだろう。
ソレが世間じゃない自然だと思う。

世間が考えてくれた安全は、自然にとってセーフティじゃないかもしれない。

「考える」という事を続けていることで完成はしないけど、成熟するんじゃないか?自分で考えられない人間は、完成のまねごとは出来ても成熟してるとは思えないね。
考える力を磨くことは歩く事だと思う。外に出ることだと思う。ちょっとした危険を見逃さず、経験として培うってことだろう。
外に出るために、ネットニュースを見て、マスクをして、密にならない空間を探すくらいなら、暖かい格好をして水筒持って心地よい靴を履いてナイフと双眼鏡を持って、っていう適所に合わせた適材を準備すればいい。その準備が「考える」ということだと思う。

誰かが考えてくれた安全は、自分にとってセーフティじゃないかもしれない。

考えながら外に出れば、まず身体が反応するんじゃないか?誰かがつくった世間一般の常識にとらわれる必要はない。「意識」を信頼しすぎちゃイケナイよ。
自分の意識が身体を動かしていると思っているかもしれないけど、自分の意識は一般の通り一遍の常識じゃなくて、それに合わせた外の世界に対応するためのものじゃないの?
本当は自分の身体は自然の一部なんじゃないの?朝起きる時に、自分の意識で目覚めるわけじゃなく、身体が起きるから意識が戻るんじゃないの?意識して眠ることができないのと同じで、無理に眠剤飲んで寝ても体調がおかしくなるだけだよ。私たちは身体という自然に従って生きるしかない。自分の身体すら意識でコントロールできないからね。

それなのに、全てをコントロールできてるって思うから、自惚れているからおかしくなるんじゃないの?人間には自然をコントロールすることはできない。風も雨の自分の意識じゃ変えられないから、それに従って準備するんじゃないの?風や雨に対処するんじゃないの?思い通りにいかないとき「考える」んじゃないの?

誰かが考えてくれた安全は、自分にとってセーフティじゃないかもしれない。

対人世界はクマが出た!って騒ぐけど、そもそもクマの生息域に人が入り込んだだけなんじゃ無いの?北海道はどこにだってクマは出るよ。クマが出たら、警察や消防や役場が何とかしろ!駆除しろ!可哀想!とか言う前に、取るべき行動があるんで無いかい?
ワラジ虫やクモが出たら、捻り潰すんじゃなく、取るべき行動があるんで無いかい?
自分で手に負える物なら捻り潰すけど、自分じゃ手に負えないから、何とかしろ!ってどれだけエゴイスティックなんだろ。

0 件のコメント: