2021年8月27日金曜日

T-3

先日ツリーイングT-3講座を観に行った。 自分的にはチンチクリンの小デブのジジィだけど、対局にあると言っていい軽量で手足が長い身体的特徴を持ってる若い参加者がいて、目的を全うする手段が全く異なるなぁと改めて実感した。


一応コウやればいいって言う感じで
アドバイスはするものの、
そんな必要ないとばかり簡単にヒョイと
目的のタスクをこなす。

一手も二手もショートカットして
次のタスクに移行できる。悔しい。

こと枝を動く、樹間で姿勢を制御する、
って言うことがそれほどスムーズに行える
身体的特徴ってこれほど顕著に違うんだなぁ
と思い知らされた。
彼のような人が知識を手に入れて
セーフティを意識した辻褄が合う動きを
できるようになれば凄い武器になる、
悔しいけど身体的特徴ってハンパねぇぜ!
投げたランヤードの末端が取れないから投げ方を工夫して…とか、足を交差させて…とか、一旦支えて体勢を作ってから…とか、枝が揺れるからバックタイを採って…とか、全く必要なく手が届いたり、軽いから枝の揺れが少なくいいポジションを直ぐ採れたり、こうとにかくこちらの思惑なんて関係なく動けちゃう。

でもまだ知識の一つ一つの整合性がなかったり、無駄な手順があったり、自分のシステムをまだ信頼しきってないから、逆に効率が悪かったり、始めたばかりだからしょうがないが、真摯な姿勢も好感が持てるし、吸収も早いし、納得しながら取り組むし、経験を積んで理屈をちゃんと理解したら善きクライマーになること間違いない。
今はまだいっぱいイッパイだから稚拙でやんちゃな部分もあるけど、こう言う人が知識と技術を照らし合わせて怪我しない程度にやばい危険な経験を積んで、ちゃんと修正して、自分がやれる自分のスタイルを構築できれば、私なんて足元にも及ばない。
あの身体欲しい。

ツリーイングT-1は、こうやりなさいって言う、失敗しないBe Safetyな考え方と方向性を提示して、いわゆる成功の事例を検定で1回だけ踏襲できればばOKだ。
最初の一歩としては全く難しくなく、インストラクターが自然の状態を見極めて、ココに架けてくださいっていうアンカーを採れて、あとは子供でもできるロープクライミングの方法を手順を追って行けば良い。国家試験のようなダサい成功体験が一度できればいい。
ツリーイングでは、自分の目的の為の自然の見方とか、その人個人の身体的特徴に合わせながら、セーフティを構築していけば失敗することはない。それはインストラクターが危険要因を排除しているからであって、技術的には非常に簡単に捉えられる。
技術的には誰でもできそうなイージーな遊びをこなせれば良いけど、でもその実T-1はイントラが事前に行なっているファクターの見極めを自分で行う必要があり、それがとても重要なソフトウェアの講座になる。
自然で遊ぶためには、一定の危険がある自然を理解するという気持ちが大切だ。

そしてT-2に進むと、唯一の正しい方法が唯一ではなくなり、いろんな方法があって自分に合わせてシステムを構築できなければ、ちっとも効率よく登れない。T-1で行ったBe Safetyをベースに他の危険に対してマネジメントする必要がある。
T-1で1回成功できればライセンスを貰えて、そこの段階で自然の危険要因を意識して居ない人はまず合格できない。インストラクターが言ったことを繰り返せれば合格っていうわけじゃなくなる。自分で考える必要があるし、他の真似をしても自分には合わないことが多い。器具を使えればいいってもんじゃないのだ。器具が自分に合っているかを見極め、自分で判断できないと、ちっとも効率よくならない。
私はT-1では120人中3人くらいしか脱落者を出していない。
不合格の3人は自分のモチベーションが尽きた人だ。
しかしT-2では、40人中5人も脱落者を出している。それは自分で考えない人だから。
そして最も楽しいT-3に進んでほしくない。

私はツリーイングの真骨頂はT-3にあると思う。自分のリスクマネジメントができて樹間を自由に移動できるようになるために、いろんな考えを知り、自分で工夫して自分のスタイルを見つけることである。使う道具がそれほど増えるわけじゃないし、しかし自分に合わせたシステム構成は星の数ほどある。それを見つける必要がある。
T-2までに1つのスタイルしか持っていない人は、自分で樹上を楽しんでいない人は、危険を感じていない人は、悲しい結果になるから、T-2までに他の樹木の経験や、違うシステムを経験してないと、いくらイントラを目指していてもT-3を勧めたりしない。
T-3講座でホストロープもヒッチコードも結びも1種類しか試さない人は、いくらインストラクターを目指していても、イントラ講習で落とす。検定を合格できれば誰でもイントラになれると思っている奴も落とす。自然を相手にしてプライマリプランしかない奴はインストラクターにはさせたくない。だからできればT-1,2,3と、別な場所で別な樹木を使ってそれぞれ行いたい。

これはあくまで私の考えだけど、楽しい樹上の世界を、ネズミーランド的なアクティビティにしてほしくない。自分が登って楽しいんじゃなく、誰かを登らせて楽しむ人にはツリーイングインストラクターにはなってほしくない。

そういった意味で、そして自分が頭に立っていない講座を体験できたことは、とっても有意義だった。今まで見えていなかったことが色々見えてくることもある。
ツリーイングって楽しいな。
ツリーイングインストラクターを目指す場合、一定のリスクマネジメントだけで十分って考えないで欲しいな。巧く登れる事より、登れない場合どうするかを考えてほしい。

ツリーイングに限らず、木に登れることより登れない場合のセカンダリプランがとっても重要なんで、巧く登れそうな道具でなんとかしようとするような人には向かないし、そういうベーシックを理解した人の方が、色々対処もできる。

今回のT-3で今後どういう方向に進むか判らないが、その考え方の武器を最大限活用して私が出来なかった領域に到達してほしい。

2021年8月26日木曜日

ラジオハーネス

この前、ヘルメットのアジャスターが飛んでFOX40を無くしてしまい、それを機に何かいい方法はないか考えていた。

前にレスキュー大会でサポートジャッジをやった時に、コンテラのラジオハーネスはめっちゃ使いやすく疲れないし蒸れないし、素晴らしいこと判っていたけど、これが果たして無線機を余り使わないオレにとって、有効かどうかが判断できないのに、いきなり2万円近くの出費は厳しい。
そこで使い勝手や汎用性を吟味してたら、こういう奴でイイってモノが、アマゾンで1,500円くらいで在るでないの!



まあ本家の1/10の価格で手に入るなら、
コレで試用してみて自分の使い方に適してる
なら本家を買えば良いとばかりポチッた。

FOX40と、レーザーポインタと、
ロープグリッパーと、レザーマンと、
無線機と、リトリーバーと、携帯電話
くらいが直に取り出せればイイ。
ピンオンリールで繫いでおけば、
最近(管理が甘くて)とても多くなった
置き忘れで紛失することも無くなる。

安いワリには収納力があってイイ。
ちゃっちぃショルダーベルトは、
どんな感じか判らないが、
そもそも軽いイイ加減なナイロンで、
コレで胸の所が蒸れなきゃ申し分ない。


必要な時に無線機を携行しやすいし、でも
どちらかと言うと、ラジオハーネスってより
老人力が身に付いた備忘ハーネスで良いし、
指示や共有に便利な方が良い。

ポータラッパーで、クライマーと重量に対して
巻き数を相談したり、倍力でリフトしたり、
笛咥えながら、ロープ掴んで、イザの対応も
両手がフルに使えて、良い体勢が取れて、
負担にならない為だから、とても便利。

そして置き忘れの紛失も避けられるなら
とっても良いでないの!

灰皿とライターとタバコも持てる!

こういうの、ツリーワーク用の管理者やオペレータにオプティマイズされたモノを開発したら、イイんじゃないか?

2021年8月22日日曜日

高山蝶と秋の逮捕

高山蝶と秋の逮捕って、疑問が生じて確認する文献に度々登場する。
チェックしたい資料は全部英語なので、必然的にGoogle翻訳頼みになると、


An alpine butterfly is on the safety line and fall arrest with the cow's tail.
安全線に高山蝶を配し牛の尻尾で秋の逮捕します。

もうホントに意味が判らない。

高山蝶や秋の逮捕で意図が通じる人は、
翻訳あるあるを経験している人だと思う。
ある程度やってると、ただ読み替えればいい。
高山蝶=アルパインバタフライで、
秋の逮捕=フォールアレストだ。
いわゆるセーフティラインにカウズテールで
取り付けるバックアップだけど、
その翻訳の読み替えを知っていなければ
何のこっちゃ!
写真はセーフティライン上のバックアップデバイス一般的にASAPだけど、キャッチでもいい。そして何にもなかったら、セーフティラインにノットパスよろしくアルパインバタフライを組んで、そこにカウズテールを接続する。もちろんアサップソーバーもキャッチなんかの道具がなくたって、落下係数を考えて整合性のある長さのダイナミックロープのカウズテールがあれば、それがバックアップだ。道具に依存するメソッド以前に、考え方のロジック方が超重要で、わかっていれば汎用性の高い、リスクに備えた引き出しになる。

Google翻訳だけでは信頼できないんで、論文や説明や専門性の高いワードに合わせて、WeblioやDeepLやExciteなどその筋で強い無料翻訳ソフトを複合的に使い分け、なるべく意図に近いと思われる「日本語」にしていく。

あと、文節を細かく刻んで、刻み方を変えて、読んだ文章を納得できる範囲で日本語化するんだけど、それでも充分じゃないので、原文の文字面を何度も口に出して読んで、何となくこの文章の人は、どういうヒトだろうと想像しながら、感じるようにしている。

だいたい英語を日本語化しても、日本語にした時点で、本来のニュアンスは失われるし、コイツがラテン系なのかゲルマン系なのかでも変わってくる。おそらく母国語で考え意見が出てくるだろうけど、特に論文は「英語」でなければ認められ難いから、英語圏じゃ無い人は母国語を一旦英語化して発表してると思う。その英語を日本語化してるんだから本筋と大きく逸れることだってある。

いくら高い翻訳ソフトでも、ネイティブの翻訳家に依頼したとしても、翻訳では彼らの意図が即ち彼の考えではない。

洋楽が好きなんだけど、レコード会社が変わると、付いてくる訳詞が全然違うパターンがある。ソリャそうだ。ミミコピだから、それの詩を原文で文字越しして訳してるんだから、訳者によって違うニュアンスになるのは当然。それが詩だと思う。
詩じゃなくても、マニュアルやガイドだって書く人やメーカーによって統一はない。だからEN365で一部は統一しようゼって決めてるんだと思う。
しかしそれを判断するのは個人の問題だけど、間違いが起こらないよう意図が伝わらない事はマカリナランから、日本では甲が乙がって面倒臭い文章になる。根本的に文字で意図が伝わらないことなど無いと思ってる象形文字の人種と、文字ではニュアンスを伝えられないと思ってる、コミュニケーションの人種は、文字は表音だから、文字を重視しない。

SNSやYouTubeだって、一瞬の「音」的なニュアンスのコミュニケーションだから、表音の人種と、文字になってる正しい事実みたいな象形の人では、捉え方が違う。SNSやYouTubeは、そういう人も居るのね、ハハハ。って感じる表音人と、これが唯一の正しい事実だって感じる象形人がいる。その根拠としてこの人は偉いとか有名な看板を掲げてるってことで判断しちゃうんじゃないの?

また「Aさんはコウ言ってる」ってことは事実だけど、Bさんは違う視点で考えてる。CさんもDさんも視点が違うから、この4人の考えを標準化するのは、もう無理!
都合の良い部分を適当にかい摘むか、インディビディアルに1人の考えを師事して、今までの言ってたことをすっかり捨てて否定して、親方を乗り換えるしかない。

だから誰それさんはコウ言ってる!ってことを、さも自分の考えのようにアピールするのは結局自分の考えじゃなく、責任を誰かに擦り付けて、逃げてるんじゃない?
自分の不都合な事実を隠してるんじゃない?どこかでベクトルがネジ曲がってるんじゃない?誰かの都合を、自分に都合良く利用して、責任を回避してるんじゃない?

ABCD+自分で、足して5で割るみたいな、自分がそれをどう判断するか?どう考えるか?を標準化して、自分の意見とするのが良いかなって思っている。だから絶対に「Aさんはコウ言ってる!これが正論!他はカスだ!」みたいなことは言いたくない。
面倒臭いけど、AさんBさんCさんDさんはそれぞれ違って、私はこのタスクの場合はBさんが言ってることが「好き」だ。って言うようにしている。

義務教育時代の同級生が、天才的なカンニングセンスで、座った周囲の全員から情報を得て、それを総合的に判断し、クラスて最高点を取る一般的に秀才だった。
学校の成績など、生徒の評価ではなく、数字に置き換えた判断でしょ。って言っていた。先生は生徒を数字にしか見ていないから、数字で置き換えられる事実なんてクソだ!俺はカンニングの腕を磨く!って言っていた。カッコいい!
身に付かなくても、世の中は点数で判断し、数字が取れるなら、その方が自然だと思う。 義務教育はカンニングを防止する対処だけど、そんなこと幾らでも搔い潜る施策があり、それを巧く利用して社会の秀才になれるなら、そっちの方が生きやすい。

総合的に私の考えにする必要があって、そのケツは私が持つ!みたいな意思表示の方が重要だと思う。過去にどれだけ凄い事実があっても、立派な勲章や看板があっても、彼らの意図が即ち一部の翻訳ではない。
私はコウ思う、コレが好き、っていう覚悟を主張し、真摯に捉て伝える事を重要視している。

だからアイツの言ってることは信用ならない!と思われてもイイ。
逆に信用なら無いと思う事実が誰かの意図ではなく自分のモノであればイイ。

ただそこで「誰々さんはコウ言ってる!」ってことをひけらかすのはおかしいと思うよ。タスクオブユージュアリーなんだから、出来れば危険でも良いと考える人と、とにかく速い方が良いと言う人と、まずはセーフティでしょって考える人は、現時点では統一も標準化も出来ないと思う。
信用ならない人が言ってることなんか聞く必要も無い。ただ都合の良い部分だけツギハギで利用するのは止めた方が良い。
YouTubeや日本で唯一とか成功の秘訣、みたいなことを言ってる奴は信用ならないと私は思い、面倒臭いけどまずはセーフティでしょ、セーフティを基本に捉えてタスクを組立てた方が、仕事は間違いないし、その基本さえ出来れば、結局仕事が速くなると思うよ。

2021年8月21日土曜日

アルファベットだよ

インターネットで Arborist で調べていると、アルファベットばかりの厄介な文献や事故報告が数多く引っ掛かる。ALARPやEAPやMEWPなんて略語や、あまり聞き慣れない語句が出てくると、調べるんだけど実態として常識化した語句はなかなか探しきれない。そしてシャレ的な慣用句というか言い回しが登場して、幾つかの文献を総合して予想するが、その中にもキーワードが隠されていて、そのキーワードを更に調べて、、、ってやってるとキリがない。どんどん深みにハマる。


でもシツコイから、詰めていくと、ジワジワと本質に近づける。そしてある時、長い深い森を彷徨っていたのが、霧が晴れるが如くパァッと明るく広がって、積算した不思議が解消されたりする。これが実に気持ちイイ。芋づる式に悩みが晴れたりすることもある。
私はウェブ検索を殆どアルファベットで行なうようにしている。

アーボリスト、じゃなく、
Arborist、ね。
それは日本語で検索すると、訳の解らない特殊伐採屋や国際的な資格を持った日本人アーボリストなんかが引っ掛かる。こういうちゃんとした人間もいるんだ!って思ってページを見てると、ん?コレは何だ?大方のこういう輩は、何か資格を持ってるとか、日本の規格に準拠してるとか、過去の優良事例を紹介してる。
過去の優良事例を見ると、1系統でスパーでへっぴり腰で木に張り付いている。システム掴んで片手でチェンソー操作している。ピーク力なんて考えてないめちゃめちゃお粗末なシステム。立派なウィンチや道具ばかり強調してたり、コイツらバカか?疑いたくなるような「優良」ばかり出てきて気持ちが萎える。イヤな感じと危険な匂いしかしない。
そういうマヤカシ見ちゃうから、オレは毒を吐き続けるんだけどね。

日本語でアーボリストって検索すると、セカンドワードに〈特殊伐採〉とか〈資格〉が飛び出す。それ自体もう怪しい。そういう輩が「日本語のアーボリスト」なのかも知れないが、まあエラそうに国内で唯一とか、樹木のスペシャリストとか、安全な特殊伐採とか、〇〇の第一人者とか、国際資格が必要とか、世界の品質を実践するとか、凄技とか、もう分けが判んない。
日本語のアーボリストは特殊伐採や空師かもしれないが、Arborist は特殊伐採でも空師でも木を伐る人でも無いからね。木を守る人だからね。
賢明な人はそんなの打算の売名行為としてしか見てないからね。
なんでチャンとしてるように見せたがるかね?
チャンとしてる人は、チャンとしてるって主張しないよ。

日本語のアーボリストでは知りたい情報は期待できないから、Arboristで検索するけど、こういうマヤカシに引っ掛かるのは無駄だし、逆に遠回りだよ。
一度はマヤカシに引っ掛かっても、ん?って気が付く人がいるからイイけど、ずぅ~と気が付かないでマヤカシに洗脳されて、フワフワしてる人は、命だけは大事にしてね。

例えばドイツとかのArboristが居る林業屋さんとかを見ると、自分たちのポリシーとして セーフティチップスや、どういうセーフティ対策を行なってるとか、プラクティスの事例やダメ工事が挙がってる。経営者がコミットメントしてる。信用できる。

ちゃんとしてるテイだけで、第一人者とか、一流とか、資格に騙されないでほしい。
入口は良いかもしれないが、資格貰っても直には何もできないからね。
その後のプラクティスでマヤカシに気が付いてね。

運動会で一等賞取る人間は、運動会のレギュレーションの範囲でしか一等賞取れないし、手っ取り速く一等賞取る人間のマネしても仕事にならないからね。

だから検索するなら「アーボリスト」じゃなく「Arborist」の方が良いよ。
直ぐにマヤカシに気が付くよ。

見た目に派手な、一部分だけ切り取った動画が、業界をダメにしてると思わないのかね? ウカレた動画じゃなく、文献読んだ方が良いよ。
英語だからとおよび腰にならず、今は簡単に翻訳できて、アンポンタンな日本語になったとしても、アンポンタンな動画を見るよりよほど参考になるよ。

2021年8月20日金曜日

メソッドステーツメントもしくはコミットメント



あるアメリカの知り合いが「コッチに遊びに来るついでに自宅の木を切って」みたいなことを言ってて、面白そうだから話を進めていると、自宅の木であろうと勝手に自然に手を付けてはいけないらしい。どうやら自治体の許可がいるらしい。

その業者がちゃんと手入れ出来る業者なのか?のチェックが入るらしい。

話を聞くと、経験とか実績では無く、意識としてアーボリカルチャーを理解しているか?っていう調査っていうか、メソッドステーツメントを提出する必要がある。


自治体が施工計画書を要求し、その計画には予備の現場評価やサイトのパラメータを予め評価が必要で、なぜその施工方法を選択したかの明確な理由が必要になる。ってことは、下見に行く必要がある。その上で「コイツは大丈夫」と言う証拠が必要で、企業体の責任者のサインが要る。
それかインディビディアルなコミットメントがいるらしい。
何ぁんにも問題ないが、如何せん言葉が通じない。
しかも他所の国から労働力を招くには、それなりのESTAの申請が要る。

面倒臭い。ただ面白がって行って伐ることは出来ない。

これは国の方針と思っていたら、そうじゃなくニュージャージーの話だ。
合衆国だからかも知れないが、地方自治は完全に独立していて、どっちかって言うと、国の方針より地元の考えが優先される。

日本みたく、末端の田舎は市町村の方針に従い、市町村は都道府県の方針に従い、都道府県は国の方針に従うみたいな構図がない。
国や県がどう言おうと、我々は我々の考えが有るって、たとえそれが国や県の方針と整合性が無くても、この村は俺たちが頑張って守るんだっている意識が強いみたい。

国立公園や公共施設の敷地じゃなく、一般の民間の樹木に対しても、細かい方針がある。 元々東海岸はそれほど豊かな土地ではないし、ヨーロッパからの移民が入植してきた土地柄、砂漠や不毛な土地に、自分が育った地方の樹の種を植えて森が始まっている。
日本みたくその辺に勝手に育つ樹は無い。樹は人が手を入れて育てるモノらしい。
人間が手を入れるために明確な指針が在り、ヘンなことをすると他所から訴えられる危険もある。面倒臭いけどそれだけ自然や社会が成熟している。

日本の政府や自治体も、人間や社会のエゴだけで、木を伐ること=生産林業ではないし、伐ってしまえ!って動くことが、将来どういうことに繋がるかを考え始めるべきだよ。いつまでも豊かな暮らしが出来ると思わない方が良いよ。
自分の任期中に不祥事が起こらなければ良いという眼先のことだけで、行動して欲しくない。眼先のことだけじゃなく、7世代先くらいのことを考えて行動するべきだよ。

樹は伐ったら無くなるんだよ。日照や風向きや人間以外の他の生物のバイオセキュリティを意識するべきだよ。
最近多い災害だって、天災のように扱われてるけど、人災じゃないか?
虫が嫌い、気持ち悪いから、殺虫剤を撒くのだって、コロす事だよ。

熊が人を襲うとかカラスが人を襲うとか、だから熊やカラスを排除するのじゃなく、熊やカラスや虫の生活域に人間が入り込んでることを意識してワイズユースを考えるべきだよ。虫が居なくなってコンクリートだらけになった都会は、人が棲む場所じゃないよ。 反社会的勢力って言い方もなんだけど「他人に迷惑をかける」ってどういうことかね?誰から見て?他に迷惑をかけない生き方って、もうそもそも社会はならないと思うよ。人間が集まって色んな考えがあるから、そういう所の隙間を狙うのがいわゆる反社って呼ばれる人間で、社会があれば当然排除なんか出来ないんだよ。

人間の社会の不快や害を尽く排除した世の中は、快適にはならないと思う。
誰の快適?って話で、反社に対して擁護する訳じゃないけど、彼らは彼らの快適を純粋に突き詰めてるんじゃないの?熊だってカラスだって虫だってそれと同じだと思う。
不快や害と上手くつき合って行く方法を考えた方が自然だと思う。
土を踏まないで生活できる場所は、社会という人工物で隔離された場所でヒトらしい生活は出来ないんだから、熊やカラスや虫と上手くつき合う方法を考えた方が自然だと思う。

行政の上層部はおそらく現場のコトなんて関係なく、自分の保身のために過去事例以外のことをやりたく無い。ヘタこいたら運がなかったくらいのことしか思わないのだろう。そもそも想定できてないから、直ぐ不測とか想定外とか言っちゃうのはイメージ出来てない証拠だよね。自分にコミットメントする必要があるし、施工計画を状況と状態を意識できる他の誰か承認してもらう方がいいよ。名刺の肩書きなんてなんのコミットメントにならない。

2021年8月16日月曜日

河原の放置原野

近くの河原には、数年前に水防訓練と称してブルが入り、一部は舗装まで敷いてちゃんと整備され、原っぱは刈り払われボウズの土むき出しになって、ほんのピンポイントに一週間くらいスーツを着た人間が集まって使われた。何をやってるんだか知らないけど、開発された。しかしその後一切使われず、道を作った残骸が残り、何も無いけど徐々に自然は着実に元の姿に戻りつつある。


この枯れ木は原っぱ縁のなんてこと無い木の
そんなに見通しが良い訳じゃなく
そばが良い餌場でもなく、
どうしてなのか?野鳥がよく停まってる。

この原っぱは外周をグルッと廻れるんだけど
一周してくると、必ずと言っていいほど
何か停まってる。
近づくと何処かに飛んで行ってしまうが、
ヤナギの陰で待ってると、
直ぐ戻ってくる。

オオジュリン


この枯れ木の下に茂っているヤナギの中に
何か飛んできたと思ったら、
ノゴマ

喉の羽毛が鮮烈に赤い。
コイツを見つけると得した気分になる。


見えないけど、けたたましい鳴き声で
気が狂ったように鳴いている
コヨシキリ
草原のジャズシンガーというが
複数羽がそばに寄ってくると
あまりにもフリーすぎるジャズ。

もちろん奴らも繁殖の為に必死だけど、
良い感じのセッションというよりは、
これはもう狂気の沙汰で、
坂田と山下の奪い合うような音。


そこにやってきたのは、ノビタキ

コイツはのんびりとしたリズムと
やさしい美しい声が染み渡る。

コヨシキリと比較するモンじゃないが
実に気持ちがイイ。


ノビの幼鳥もやってきた。
この辺りは虫も多く外敵も少ないので
多くが繁殖する。子育てにもってこいだ。

ノビタキの幼鳥は、色が判然としないが、
なんとなく辿々しくソレらしい飛び方だし
見ていても微笑ましい。
人間が一時手をつけて、何だか判らない利用をして、そのまま放置していれば、自然は確実に戻ってくる。何世代か先のことを考えて施された事業では無いだろうけど、ほんの数年で元に戻る。要らない舗装道路を除けば元の河原になる。しかし舗装道路を作ってしまったことで車が容易に入って来れるようになり、不法投棄がハンパなく増え、ゴミを捨てられるのはイヤなので立入禁止にして、そんなもんロープ張ったって看板掲げたって入ってくるヤツは入ってくる。
何だか判らない行政のやり方も数年放置されれば元の自然になる日本はいいなぁ。

2021年8月13日金曜日

誰かの評価

展覧会を観に行く人は、その人の画が好きだったり、エモーショナルな何かを感じたり、実際に観ないと感動できないから、行くんだと思う。
コンサートも、そのアーティストを生で感じたいから、観に行くんだと思う。

自分では作者のパッションに触れて今後の自分の何かを変えたいからだと思う。



コビッド−19の影響があまりに大きく、
行きたくても行けない日々が続いてるが、
去年どうしようもなくなって、
ピータードイグを新国立に観に行った。
超マイナーな、周りの人でも殆ど知らない
ほぼ同年代のイギリス人画家で、
でも彼の画を何かで見た瞬間、
とてつもないシンパシィを感じ、
これを観なければ、恐らく自分の人生に
多大な後悔が押し寄せる。
しかも全く有名じゃないから、
今現物を観ておかないと、
二度と現物に近づけないだろうと思い、
ウィルス蔓延の最中東京に行った。

明らかに自分の中の何かが変わった。
会場は、現代アーティストならではの、写真をとっても良い仕様だった。超巨大だった。震えた。入場制限もあり(制限していなくてもスカスカだったが)かなり空いていたので、自分の好きなだけゆっくり巨大な画に対峙できて、同じ時間にお互いが共有する空間認識の意味。こういう出会いが在るから、ライブはヤメられない。

この人は現代作家なんで、ライブも在るが、もう亡くなってるアーティストの、遺族や財団などのプロモーターが行なう場合もある。
オマージュだったり、リデュースで行なわれる会は本人以外の誰かの思惑で動いている。

そして誰か有名な人に一旦評価されると、その評価を自分で出来ない輩が「凄い」とか「素晴らしい」ってなってしまうのだと思う。
前にバーンズコレクションを観たくって態々東京に行ったことが有る。
長蛇の列が上野公園からはみ出していた。そして美術館の中に入っても好きな絵の前で停まることすら出来ないらしく、ベルトコンベアに載ってるごとく展示物の前を通り過ぎるだけ、と言われた瞬間にもう観る気が無くなった。自分が何かを感じたいが為に向った展覧会でも、自分の想い通りに観覧できないなら、一層の事観ない方がイイと思った。
そして会場から出てきたババァどもが、図録やグッズを抱えて口々に「素晴らしい」って言っていた。それも観る気が失せた原因だった。
有名なアーティストの何かを「見た」っていう証拠が欲しいだけに思われた。

有名な何かを、誰かの評価を、マルッと信じる恐ろしさを知った。

アーティスト本人は(コレはただのコレクターだったけど)そんなつもり無くても、プロモーターが動いて、何かの形を作る場合は、コムロとかジャ◯ーズとかABC48とか、もうそのアーティストの領域では無い。商売である。実際に魅力無くたって構わないし、ソレに魅力を感じる人がいて群がる奴らを対象に金儲けできればよい。金の匂いがする方に群がる蟲だ。
グッズを販売できればインターネットでさえ良い。

自分では、そういう誰かの都合で「素晴らしい」とされる何かを、マルッと鵜呑みして、受け入れて動きたくない。マルッと鵜呑みにする方がラクだし間違いないかもしれないが こと自分の危険なら「安全」って言われてマルッと鵜呑みにしたくない。

「バカ志功」と呼ばれ、地元の多くで穀潰しとしてその才能を認められず、卑下されていた人でも、一旦一流の評論家や有名な誰かの高い評価を受けたら、みんなコロッと態度を変えて、郷土の誇りとか、青森のゴッホとか言われた棟方志功は、多分本人は自分の情熱で表現したかっただけだから、他人の評価など何も気にしなかったと思う。しかしバカにしていた人たちの事は多分好きにはならなかっただろう。
晩年有名になってからゲージュツの都に招待されたか如何かでヨーロッパに行っている。その時のサンマルコ広場とかグリニッジビレッジとかの作品があるが、全然つまんない。世界で評価されて、期待に応えようとしたか、欲が出たか、自分の方向性がどうして良いか判らなくなってる感じ。満たされたことによって表現がお粗末になっている。狙いに行ったらダメだぜ。評価が作者をダメにしたパターンだ。ガッカリだぜ。
自分で持っているパッションを上手く表現できてなくても、世界の評価に追従するような、棟方志功の作品だから「素晴らしい」って言う人たちに潰されたと思う。誰かの評価なんて関係ないのに。

志功記念館に行ったとき、上げ膳据え膳でくっ付いてくるボランティアがいて、とにかく誉め称え素晴らしいを連呼してウンザリした。帰りに是非グッズを買ってくださいって言うし、コイツ本当はバカ志功って言ってた奴らの一派だろって思ってしまった。
その足で寺山修司記念館に行ったけど、こちらは地元評価が非常に低く、未だに変人扱いされてるから、スゴく快適だった。グッズ販売も無かった。

下北と東通と津軽と青森と弘前と八戸と南部。あの狭い地域に、他を寄せ付けない何かが存在する。7地区が互いに啀み合ってる。県内でも他を認めていないし、表向きみんな青森県人って言ってるけど、腹の底では互いに罵り合ってる。信じられない。痛々しい。全部が全部そうと思いたくないが、もうこの地域では自己の嗜好なんて無いんだろうな。誰かが言った正解は、その発言者の存在が大きければ大きい程、パーマネントで揺るぎない正解になってるんだろうな。ホロコーストが起きるとしたらこういう所だな。

ただ有名な何かに触れている自分がカッコイイとか、好きでもない何かでも他人の多くが評価するものなら間違いないとばかり、自分の思考を停止させて飛びつく全体主義的な嗜好は採りたくない。あくまで自分で考えて自分で受け入れて咀嚼して行動を採りたい。

超絶精巧な技術の写真的な絵は、それはそれで技術として評価されても、芸術とはちょっと違うと思う。誰か感じた芸術的要素をマルっと、さも自分が感じていることのように「素晴らしい」と言っちゃうのは痛々しい。
自分が判断できない芸術は、誰かの評価を自分のモノとして取り入れちゃう、ダサさ。

誰かの評価じゃなく、自分自身の評価が、自分を助けてくれる。
誰かの評価では、自分に適切じゃないし、誰かに危険に晒されることになるよ。

2021年8月3日火曜日

イノベーション

新機軸


一般には新しい技術という意味に誤認されることが多い。もちろんそういう一面もあるが、本当はそれだけでなく、新しい発想や取組みが社会的意義のある新たな価値を創造したり、社会的に大きな変化をもたらす「考え」の方だと思う。

それまでのモノ・仕組みに対して、全く新しい技術や考え方を取り入れて、全く新たな価値を生み出すことだろう。

刷新される革新とは、それまでとは異なる「基軸」で、生産手段や労働力などを新しい「機軸」で捉えることがまさにイノベーションだと思う。
そういう新機軸を見つけ出し、自分で集めた情報を自分で判断して、多くの人にアダプトしたい。それを行なうイノベーターであり続けたい.
イノベーターって言うと、スウェーデンの「カッコいい家具」を思い出す。でもそれは「家具」って言うより、北欧のライフスタイル的な考え方がモテはやされたのだと思う。

昔、機動力が欲しい人はウマを飼って、1馬力のエンジンで人やモノを運んだり、農耕したり、馬は家畜として優秀なエンジンだった。
飼い主も馬は宝物(神)で、死んだら馬頭観音になって自分の敷地に供養した。

まだ道路もそんなに舗装されていなくって、ジャリ道で馬車が多かった。馬はクソがしたくなったら立ち止まって、ボソボソたれていた。神の行いを否定する人など居なかった。 まぁ馬の糞は、ほぼ草なんで、そんなに気にならなかった。

時代は変わり札幌に出てきた時にはまだ、大通公園を観光馬車が闊歩してたし、でも飼い主は立ち止まった馬の糞を回収していた。
ジャリ道の頃は、そんなのジャリの隙間に馴染んだし、乾燥して何処かに飛んでったし、でも何処から苦情が出たか?舗装道路はそうもいかない。

犬の散歩でも犬の糞を持ち帰る人など居なかった。もっとも愛玩動物ぢゃなく防犯のための家畜だったから、散歩なんてさせていなかったんだよねぁ。

今は愛玩動物なんで、公衆に連れ出したら、糞を回収する人が多い。

ジャリ道→神様の馬→糞をするのは当たり前
舗装道路→愛玩動物→糞を回収するのが当たり前、
っていうマジョリティの変化が、まさにイノベーションで、馬の変わりに大きな排気量のトラックやトラクターが誕生したことで、それまでの神が一気に必要が無くなった。社会も熟成していなかったけど、快適な暮らしを求め、舗装道路になり、快適に暮らしを営むには、糞を回収するって言う方向性になっていったんだろう。

社会のトレンドとしては、排気ガスより馬の糞の方がエコだと思うが。

今更そんな事どうでもイイけど、この変化中にはどういう社会の変化があったのだろう? 糞を回収するって言う事がマジョリティとなる直前には、キャズムがあったと思うが、あまり意識したことがないな。
神様の馬は、舗装道路は脚に良くないし、爪割れるし、勝手に舗装道路にすんなよ!って、糞を回収することに抵抗していた人も多かったと思うが、でもいつかは人間社会に適合しなければ暮らし難くなっちゃうんだろうな。

新機軸として生まれたイノベーションは、新しいベーシック(基軸)の元で、有効かつ適正に利用されなくては目的を果たせないと思う。
チェンソーが誕生しても、鉞や斧の基軸はベーシックにならない。
チェンソーにはチェンソーの基軸がある。そのベーシックを知らなければ、ただの凶悪な道具だよ。地べたで鉞担いで木を伐っていた人や、ハシゴで地下足袋で木に登ってた人が ロープを使って木に登って伐ることは出来ないよ。
ロープを使って木に登りたいなら、ロープを使って木に登ること自体のイノベーションを理解しないと。

安全とセーフティの違いが判らなければ、イノベーションにならないよ。

ロープを使って木に登る基軸を、何処に置くか?で効率もセーフティも変わってくるよ。 道にクソ撒き散らしてたら、嫌われるよ。

いまはそのキャズム期なのかな?

私がアホアホランチャーと呼ぶモンがある。もちろんとても有効な手段だけど、ウェイトを投げることがヘタだから、ビッグショットなんかのランチャーに、手を出す人が多い。パチンコは引くための力でプルプルして目標が定まらないから、圧搾空気で飛ばす道具。 その道具はイノベーションだけど、使う人間のヘタクソをカバーすることは、イノベーションとは呼ばないんじゃないか?

先日ツリーワーカーのグループで「ロープランナーを買ったけど、動画のように巧く登れない、みんなどうしてるの?」という投稿が在った。

回答は、セッティングした?ロープ径は?種類は?チェスト使ってる?クライマーの重さは?機械装置を使う理由は?ガイド読んだ?など矢継ぎ早に質問され、
当然デバイス使うなら、まず使う理由と、持ってるロープとの相性や自分とのファインチューニングしないと、そんなに楽に登れないよ。と言う結論になった。
当人は、登るの大変だから、楽に登ってる人が使ってるデバイスだからイイと思った、らしい。そして当人が回答するたびに、多分友だちになれないから自分で考えてとか、整合性を無視して仕事をするのは話にならないとか、サンデークライマーが持つべきモノではないとか、売るなら安く買うよとかモノ凄く呆れられていた。

モノにはイノベーションがあるかもしれないが、
そのイノベーションを引き出すのは、使う本人だ。
モノを持ってるだけでは、イノベータには成れないゼ!