2021年8月13日金曜日

誰かの評価

展覧会を観に行く人は、その人の画が好きだったり、エモーショナルな何かを感じたり、実際に観ないと感動できないから、行くんだと思う。
コンサートも、そのアーティストを生で感じたいから、観に行くんだと思う。

自分では作者のパッションに触れて今後の自分の何かを変えたいからだと思う。



コビッド−19の影響があまりに大きく、
行きたくても行けない日々が続いてるが、
去年どうしようもなくなって、
ピータードイグを新国立に観に行った。
超マイナーな、周りの人でも殆ど知らない
ほぼ同年代のイギリス人画家で、
でも彼の画を何かで見た瞬間、
とてつもないシンパシィを感じ、
これを観なければ、恐らく自分の人生に
多大な後悔が押し寄せる。
しかも全く有名じゃないから、
今現物を観ておかないと、
二度と現物に近づけないだろうと思い、
ウィルス蔓延の最中東京に行った。

明らかに自分の中の何かが変わった。
会場は、現代アーティストならではの、写真をとっても良い仕様だった。超巨大だった。震えた。入場制限もあり(制限していなくてもスカスカだったが)かなり空いていたので、自分の好きなだけゆっくり巨大な画に対峙できて、同じ時間にお互いが共有する空間認識の意味。こういう出会いが在るから、ライブはヤメられない。

この人は現代作家なんで、ライブも在るが、もう亡くなってるアーティストの、遺族や財団などのプロモーターが行なう場合もある。
オマージュだったり、リデュースで行なわれる会は本人以外の誰かの思惑で動いている。

そして誰か有名な人に一旦評価されると、その評価を自分で出来ない輩が「凄い」とか「素晴らしい」ってなってしまうのだと思う。
前にバーンズコレクションを観たくって態々東京に行ったことが有る。
長蛇の列が上野公園からはみ出していた。そして美術館の中に入っても好きな絵の前で停まることすら出来ないらしく、ベルトコンベアに載ってるごとく展示物の前を通り過ぎるだけ、と言われた瞬間にもう観る気が無くなった。自分が何かを感じたいが為に向った展覧会でも、自分の想い通りに観覧できないなら、一層の事観ない方がイイと思った。
そして会場から出てきたババァどもが、図録やグッズを抱えて口々に「素晴らしい」って言っていた。それも観る気が失せた原因だった。
有名なアーティストの何かを「見た」っていう証拠が欲しいだけに思われた。

有名な何かを、誰かの評価を、マルッと信じる恐ろしさを知った。

アーティスト本人は(コレはただのコレクターだったけど)そんなつもり無くても、プロモーターが動いて、何かの形を作る場合は、コムロとかジャ◯ーズとかABC48とか、もうそのアーティストの領域では無い。商売である。実際に魅力無くたって構わないし、ソレに魅力を感じる人がいて群がる奴らを対象に金儲けできればよい。金の匂いがする方に群がる蟲だ。
グッズを販売できればインターネットでさえ良い。

自分では、そういう誰かの都合で「素晴らしい」とされる何かを、マルッと鵜呑みして、受け入れて動きたくない。マルッと鵜呑みにする方がラクだし間違いないかもしれないが こと自分の危険なら「安全」って言われてマルッと鵜呑みにしたくない。

「バカ志功」と呼ばれ、地元の多くで穀潰しとしてその才能を認められず、卑下されていた人でも、一旦一流の評論家や有名な誰かの高い評価を受けたら、みんなコロッと態度を変えて、郷土の誇りとか、青森のゴッホとか言われた棟方志功は、多分本人は自分の情熱で表現したかっただけだから、他人の評価など何も気にしなかったと思う。しかしバカにしていた人たちの事は多分好きにはならなかっただろう。
晩年有名になってからゲージュツの都に招待されたか如何かでヨーロッパに行っている。その時のサンマルコ広場とかグリニッジビレッジとかの作品があるが、全然つまんない。世界で評価されて、期待に応えようとしたか、欲が出たか、自分の方向性がどうして良いか判らなくなってる感じ。満たされたことによって表現がお粗末になっている。狙いに行ったらダメだぜ。評価が作者をダメにしたパターンだ。ガッカリだぜ。
自分で持っているパッションを上手く表現できてなくても、世界の評価に追従するような、棟方志功の作品だから「素晴らしい」って言う人たちに潰されたと思う。誰かの評価なんて関係ないのに。

志功記念館に行ったとき、上げ膳据え膳でくっ付いてくるボランティアがいて、とにかく誉め称え素晴らしいを連呼してウンザリした。帰りに是非グッズを買ってくださいって言うし、コイツ本当はバカ志功って言ってた奴らの一派だろって思ってしまった。
その足で寺山修司記念館に行ったけど、こちらは地元評価が非常に低く、未だに変人扱いされてるから、スゴく快適だった。グッズ販売も無かった。

下北と東通と津軽と青森と弘前と八戸と南部。あの狭い地域に、他を寄せ付けない何かが存在する。7地区が互いに啀み合ってる。県内でも他を認めていないし、表向きみんな青森県人って言ってるけど、腹の底では互いに罵り合ってる。信じられない。痛々しい。全部が全部そうと思いたくないが、もうこの地域では自己の嗜好なんて無いんだろうな。誰かが言った正解は、その発言者の存在が大きければ大きい程、パーマネントで揺るぎない正解になってるんだろうな。ホロコーストが起きるとしたらこういう所だな。

ただ有名な何かに触れている自分がカッコイイとか、好きでもない何かでも他人の多くが評価するものなら間違いないとばかり、自分の思考を停止させて飛びつく全体主義的な嗜好は採りたくない。あくまで自分で考えて自分で受け入れて咀嚼して行動を採りたい。

超絶精巧な技術の写真的な絵は、それはそれで技術として評価されても、芸術とはちょっと違うと思う。誰か感じた芸術的要素をマルっと、さも自分が感じていることのように「素晴らしい」と言っちゃうのは痛々しい。
自分が判断できない芸術は、誰かの評価を自分のモノとして取り入れちゃう、ダサさ。

誰かの評価じゃなく、自分自身の評価が、自分を助けてくれる。
誰かの評価では、自分に適切じゃないし、誰かに危険に晒されることになるよ。

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