まだ若い頃に、田舎で育った私はデザインって何のことか判らなかった。
育った環境として、良いモノは良い人のマネだったし、自分の表現を何かで行うことが疎まれてた時代だし、誰かに褒められる為に行われてた表現が気持ち悪かった。
リンゴは赤いだろう!とか、壁の色は灰色だ!なんて言われ続けた。
紫のリンゴや黄色い壁は否定し続けられた。
そしておもねって赤いリンゴを描くとセンセに褒められ、何とか市長賞とか貰えた。
でもそんな賞が欲しかった訳でもなく、俺は紫色のリンゴの方が好きだった。
他人にどう評価されようが、おかしな考えの人だと思われようが、それが個性でアートだって今になれば大きな声で言えるけど、当時は世間では赤いリンゴなんだな、面白くない世界だなって思っていた。
高校では美術を専攻していなかったのにも関わらず、美術準備室に入り浸り、美術の先生の話を聞くのが好きだった。その先生はリンゴは赤くなくても良い!って、表現は自由であっていい!と言う人で、W大学出身で(早稲田じゃないよ)ソコに行きたいと思ったが、その時は頭も経済的にも敵わず行けなかった。
親は公務員になれ!って、方々に手を回すし、そんなアリテイの生き方はまっぴらだし、赤くなくていいリンゴが集まる世界を見たかった。その近道がデザインだった。
そして一刻も早く
リンゴが赤い人たちから逃れたいと思い、
デザインの専門学校で札幌に来ると、
周りでは、リンゴは赤くなくても良い
人ばかりで、オカシな連中が多く
「ああ、オカシなことを言っても
ヤッても良い世界」なんだと、
解き放たれた。
観る物聞く物新鮮で、そんな中、
同級生が持っていた[流行通信]という
雑誌を見せてもらい、
まあ当時のハイセンスなグラフィックが
花咲いてる雑誌だった。
その中でコラムを持っていた
粉川哲夫という人が居て、
そのコラムがとてもシンパシーを感じ、
もうすっかりファンになった。
その後ある友だちが通っていたW大学でその粉川さんが教授をやってることを知り、今ではもう時効だろうから言っちゃうけど、潜り込んで何度か授業を受けた。当時の大学というかその社会人間学みたいなゼミではいい加減というか、構内の原っぱに集まって出入り自由で出欠も無く、簡単に潜り込めた。
ソコで客体と主体、客観と主観みたいな話を非常に面白く聞けた。というか当てられて受け答えが出来たし、個人的にも話が出来た。
ひょっとしたらソコでは私のようなモグリの学生が沢山いて、粉川さんはそのことを知っていて、敢えて当てられた気もする。
なんか一般的には主体と客観が相対する物のように思われている気がするが、
主体は[私は…、I ]で
客体は[貴方自身の私は…、YouのI ]で
主観は[私の…、Me ]で
客観は[我々の…、We ]で、
更に客観には、利害関係がある我々Weと、利害関係の無いあなた達Theyがある。
だから俯瞰 Bird’s-eye viewが、出来るのと出来ないのでは大きく話が違ってくる。
みたいな話を伺った。
その時はカバンから黒電話の受話器だけを取り出して、あるサークルの2人が電話で話をする関係が主体vs主体で、その関係は順次入れ替わる。A主体が話をしているとき、B主体が「A主体がコウ考えているであろう」ことを想像することが、Bにとっての客体だ。
そしてその電話の会話を周りで聞いている同じサークルの友だちが、客観になる。
だから客観と客体は違うと言うような話。
そしてそのAvsBの話に興味が無い人と自分の利害関係に当たる人が居ると、更に関係が複雑になるので、冷静にこれを判断する必要がある。
自分のことは自分で考え、YouのIを想像してBird’s-eye viewで判断した方が良い。
「普通とか一般的」とか言うヤツのことは信用するな!って言われた。
私のベースにはあの時の感覚が色濃く残っている。
それはデザイナーとしてもディレクターとしても、とても良い影響だ。
何かを売りたいとか、世間の注目を集めたいと言ってる誰かのために、その人間が望む形を提示できるようになった。
商売としての感覚はそのとき培った知識で、世の中は単純だ、プロパガンダは簡単だという良からぬ感覚で生計を立てていたが、あるときそういうデザインを、大きく宣伝されるウソに嫌気がさして、もっとシンプルに良いことを伝える手段としてデザインを活かしたいと思うようになった。
「今売れてますよ」「人気のイベントですよ」なんて言うことを、宣伝文句にする広告はどこかにウソが潜んでる、そういう嗅覚が鋭くなった。
まずは俯瞰して、胡散臭そうな部分を純粋化して、客体と主体で考えて、主観で実践してみると、なんとなく感じる物が有る。
なんでこんなに安いの?って物には必ずカラクリが有る。
実質無料とかポイントが堪りますよ!って訴えてる物には、三角形の頂点にとって都合の良い他に利益を生む部分があるからソウしているのだって思ってしまう。
年功序列で三角形の頂点に就いた人には何の魅力も感じない。
まあ何を言ってるかというと、相手が思ってるであろうことを想像して自分なりに判断することと、相手が本当に思っていることは違う。
そしてブが悪くなると「普通とか一般的」って客観視するように見せかけて、自分の利害関係を優位に持ち込もうとするのは、客体的に物を考えてない証拠だ!そういう議論には客体が居ないから争いになることが多いから、しっかり一歩引いて、俯瞰で物を考えるようにしよう。
だから普通とか一般的って言う人のことは、WeとThey をしっかり見極めないと怪しい宗教的な物事に巻き込まれる恐れが有る。
大きな組織や団体は、三角形の頂点の自分の利害関係でしか物を考えない、ほんの一部の考えかもしれない。
そしてその三角形を普通とか一般的とかに見せることで、自分の力や考えを立派に見せ、三角形の底辺を広げて、益々自分の利を拡大し、妄信的に信じ込ませる都合の良いマスタースレイブ方式だ、それは宗教以外の何物でもないと思う。
リンゴが赤い人間にとっては、三角形がラクなのかも知れないが、ラクして普通や一般的を掲げて、リンゴが赤くない人を巻き込まないでほしい。
私も含めて、ある人がコレは良い考えだ、良い方法だ、良い道具だ!なんて言っても、
客体的に物を考えないでいると、壺や水を買わされてるのと一緒だ。
客観視しているつもりでも、それはWeかTheyで大きく分かれるし、
客体で考えて、俯瞰で判断しないと、みんな大きな三角の頂点の犬になっちゃうよ。
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