デザインとは設計や計画で、意匠や美的センスなんて設計にくっついてるオマケみたいなものです。眼に見えやすいからそこに注目が集まるだけだと思う。本当はその設計に自らの価値判断を伴わせててこそ、デザインも生きると思う。
例えば絵画を見て、
キレイ・汚い・面白い・気持ち悪いという、
心の動きがエモーションが
感動や嫌悪に繋がるんだと思う。
自分で判断がつかないから、
誰か有名な人がイイって言ってるから
これはイイものなんだなっていう、
横並びにしておこうとか、
これをイイって言う方が受けがいいとか、
批判されたくないから
取りあえずイイって言っておこう。
自分で判断がつかないから
「素晴らしい作品ですね」
とか言っちゃう。
ジジイが特に、素晴らしいって言う。
最近の展覧会って写真撮ってもイイ
こともあるのね。ピータードイグ良いよ!
私は素晴らしいとか言われると、コイツなんにも考えてねぇなって思ってしまう。
とりあえず意味を探るんだけど、見つからなかったら素晴らしいって言っておけば、秩序を乱すことは無いだろう的な、まさに自粛警察っていうか相互監視の目線を気にしての言葉だろう。
書や抽象画は、判断がつかないものほど素晴らしいって言われる。
永野がゴッホより普通にラッセンが好き!って言うこと自体憚られる。
ラッセンが普通に好きって言う感情を持っている永野は、素晴らしいじゃなく「好き」っていう感情を表に出しているから、出来ない自分の代弁者的な存在かな。
個人的には永野は嫌悪感しか無いけど、その嫌悪感がエモーションなんで、ということは表現者なんじゃないかな?嫌いだけど。
新聞社やテレビ局が展覧会や発表会に取材に行って、来場者にどうでしたかってインタビューをするシーンが有るが、おおかた「素晴らしい」って言うよね。局や社もその声を納めたいからジジイやババアに聞く。ああいう取材って予定調和以外なんでもないからインタビューとは言わない。恐らく素晴らしい以外の批判とかしたらカットされちゃうしね。
そういうコトに慣れてしまった人は、凝り固まった秩序の中で生きてください。
例えば戦中は、鬼畜米英って竹槍ついてた人も、戦後社会秩序が一変すると、ギブミーチョコレートだからね。今まで鬼って言ってた奴らも直に友だちに成れる。それが社会の秩序だから、国の方針だから。根拠も見当たらない絵空事をオマエ達はコウやれ!っていう指針が出たら、それに従うような素晴らしい人たちが日本の社会を作っている。
そんな社会秩序に従うほどイカレてはいない。
表向きは一市民の社会生活を送れるようにしているが、行政が発行したハザードマップとか災害回避情報とか信じてはいない。
自分の危険回避は、協会や行政がやってくれるものじゃなく、自分で組み立てる必要があるよ。自分で対応策を練っておかないと、誰かが言うことを信じて死にたくないよ。
ココに住んでて津波や洪水で死ぬのだったら本望だよ。
ああ、しょうがないなって死んで行くけど、
行政の言う通りにやってたのに〜って死ぬのはイヤだ。
補助金だ助成金だポイント還元だって一喜一憂して、要らない手続きに時間掛けて、そんな時間があるなら自分で稼げよ。自分でやってることが稼げないから補助金や助成金に頼るんだろ?ソレって自分のやってることに魅力無いからじゃないの?
補助金だった助成金だってポイントだって元は国民の税金だろ?全部が総じてソウダとは言わないが、上にヘツラって喰わしてもらってる犬が偉そうにするんじゃないよ。徒党を組んでその税金をあたかも正しい使い方してるっていうテイで、好き勝手やってる奴らも同等だよ。自分で喰えないから国民に喰わしてもらってるっていう意識を持つべきだよ。
言われたことを正しく守って、ババ引くのはイヤだよ。
自分自身の危険は、自分自身で対処するよ。
それ以上のコトが起きたら、諦めるよ。
あ〜あ、しょうがねぇやって。
でもそれまでは、
自分で落ちない方法も逃げる所も考えるよ。
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